保育や教育、子育てにおいても、「主体性」を育むということは、現在の日本の幼児教育においてメインに据えられているテーマである。
一方、それと似たような言葉で「自主性」というものがあるが、両者はしばしば混同されているように思える。
では、主体と自主の違いとは何か、言葉の定義から考えてみよう。
言葉の定義
主体:自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。
ー引用:weblio辞書
つまり、
主体は行動や発想の起点が必ず自分にあると言えるが、
自主は行動自体は自らが進んで行なっているがその起点が必ずしも自分自身にはない
といえよう。
保育所保育指針内の主体と自主
辞書的な意味の違いについては上述のとおりだが、では保育において主体と自主をどのように位置付けているのか、
保育所保育指針の記載から考えてみたい。
結論からいえば、主体は保育所保育指針におけるど真ん中のキーワードだが、自主にはほとんど言及されていない。
そのことは各々のワードが指針内に出てくる回数からも明らかである。
主体:指針12回(指針解説70回)
自主:指針2回(指針解説4回)
指針の約60ページに12回、解説の約350ページに70回、つまり5ページに一回は「主体」というワードが出てくるほどに頻出のワードである。
これら指針内での扱いやその辞書的な意味から鑑みるに、
日本の保育が主として目指しているのは、
「自ら考え行動できる子ども」(主体)であり、「誰からも言われずとも動ける子ども(自主)」ではないと言える。
※自主がいらない、と言っているのではなくあくまでメインテーマではないという意味。
自主性を過度に押し付けていないか?不適切保育を行わないために
主体と自主という言葉からも自身の日々の保育は振り返れる。
たとえば、お散歩から帰ってきたら手を洗って、洋服を着替えて、着替え終わったらご飯に向かって…
これらを日々のルーティーンとして、大人の指示なく動くことは子どもの「自主」性に基づくものである。
これらの行動が不要だとは言わない。
しかしながらできない、やらない子を責めたり、やらないことが異常であるくらいの言葉を使って叱ることは保育の主眼にはないということもまた理解する必要がある。
上に挙げたような関わりは、個人的には不適切な保育と考えるが、不適切保育とは保育士の知識不足、理解不足、つまりは専門性の欠如からくるものだと自戒したい。
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